絵画の化学式


東京国立近代美術館で、
パウル・クレー|おわらないアトリエ』を鑑賞。
近代美術館では4月の初旬にも「岡本太郎展」を鑑賞した。
北の丸公園は桜が満開だった。
そして季節は夏となり、木立の緑は濃くなっていた。


さてパウル・クレーの写真から、
白衣の似合う科学者のような風貌だなと思った。
彼のやや広い額と、
端整な顔立ちは知的な印象を与える。


クレーの技法は、写して/塗って/写してー油彩転写の作品。
それは「綱渡り師」などの作品。
切って/回して/貼ってー切断・再構成の作品。
「沈む世界を覆って霧がたなびく」
切って/分けて/貼ってー切断・分離の作品。
「Mのための花輪 庭のリズム」
おもて/うら/おもてー両面作品。
「海辺にかたちづくられたもの」
など実験的な技法を取り入れている。


岡本太郎
「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」
ではないが、
「画布の裏にも絵があってもいいじじゃないか」
そんな言葉がふと過ぎった。


わたしはパウル・クレーの作品群を観ながら、
何時か化学式を解くように鑑賞している自分を発見していた。
化学式の確かさと、不確かさの狭間・・・


クレーの作品に感じるのは、
安定的なのにどこか居心地が悪いと言うか、
不安定な気分になることだ。
一見、正方形を中心とした幾何学的な絵をまえにするのだが、
どこか実験の化学分裂の途中のような気持になることがあった。
見える事象だけに留まることを許さないクレー作品の倫理。
抽象性を極限まで突き詰めれば、
安定した物質に近づくように思えるのだが、
どうもそうした訳にはいかないようだ。
それは多分に彼の作品に天衣無縫な子供の心が、
内包されているかなのかもしれない。


彼の作品を鑑賞しながら、
ラスコーの壁画が脳裡に浮かんだ。
芸術というよりは、
創作のマグマがあふれて描かずにはおれない、
原初の人類の絵画への情熱のようなものを・・・
「ともかく面白いから描くのだ」
そんな言葉。
ジョアン・ミロの作品にも感じるのだが・・・
抽象絵画は、実は理性的なホモ・サピエンスでありながら、
ホモ・ルーデンスである人類の遊び心の発現なのかもしれない。