着想


「言語の音韻は抽出された自己表出であり、
 韻律は抽出された指示表出であり、等時拍音を特徴とする日本語は、
 これを音数律として必然化する。
 したがって、五・七・五・七・七や五・七・五は、日本語の表現の
 歴史性としてかんがえれば、それ自体が優に目に視えない文学の
 内容と形式をなしている根源である。
 だから短歌や俳句の音数律は、
 リードのいうような抽象的形式ではなく、
 それ自体が不可視の文学(芸術)として
 可視的な文学表現の強調をなすものである。」


吉本隆明著「言語にとって美とはなにか」より


ああ、成る程とあらためて思った文章だ。
特に俳句を作る者として・・・
「音韻」は自己表出
「韻律」は指示表出
「等時拍音」を特徴とする日本語
「音数律」として必然化する


ここで俳句独特約束事の「切れ字」や「季語」は、
内容と形式で、どのように位置づけられるのか?
俳句は「切れ字」「季語」に律せられた文学(芸術)でもあるからだ。
例えば「季語」を隠喩として捉えるべきか否か・・・
「着想」として展開してもよいのではとも思う。
なかなか頭の中が纏らないのが現状だ。