私の聖地


国木田独歩の「武蔵野」を読んみながら、
風景画のような文体だなと思った。
中学1年の読書感想文で、
この「武蔵野」について書いたことがあった。
国語の先生は多岐川裕美似の美人の先生だったが、
何というか厳しく、ちょっと怜悧な印象のある先生だった。
手厳しい女性教師で、
叱責された男子生徒が泣いたこともあった。


私はその「武蔵野」の感想文で、
「鷹揚」という言葉を背伸びをして使った覚えがある。
先生から赤いボールペンで「鷹揚」とは、
まさの「武蔵野」にぴったりですね・・・
そんなコメントを頂いたと記憶している。


平林寺や深大寺を逍遙するようになったはその頃からだった。
徳富蘆花の「みみずのたはこと」を読んだのもそのころだった。
「武蔵野」はいつしか私の「聖地」のような存在になっていた。
楢の類の雑木林の春夏秋冬のそれぞれの美しさに魅了された。
武蔵野は人生の一つの愉しみとなっていた。