今年の桜は去年の桜ではない

        

「死は、個人にたいし類の冷酷な勝利のようにみえ、
またそれらの統一に矛盾するようにみえる。
しかし特定の個人とは、たんに一つの限定された類的存在にすぎず、
そのようなものとして死ぬべきものである。」
カール・マルクス(経済学哲学草稿)


人間は、個人として生まれ、そして死んでゆくのも個である。
しかし、類としての人間は、連綿と続いていく。
それを、私たちは、「人類」という概念で表現する。
吉本隆明の「マルクス紀行」を読んでいるが、刺激される論理が、
散りばめられている。


「個人としての人間が、生誕しそして死ぬというかたちでしか
繰り返されないのに、人間の類(人類)という概念がなりたつのかを、
鮮やかに、だが(自然)と(死)とに偏執したかたちで徹底的に
云いきっている。」
吉本隆明マルクス紀行」


私たちは、人類の何十万年の歴史の中で、個としては、
つめの先ほどの、存在を刻むことが出来ない。
それでも、類として存在する、人間として、確かに、
この文書を読んでいただいている方も、
そして、こうして書いている私も歴史の中に、存在しているのだ。
共生している存在でもある。(共に生きている)


個としての自分の歴史と、遥か数十万年まで遡って人類の歴史に、
思いを馳せると、論理で考えるより、眩暈にも似た、
いわば、詩的な気持ちに襲われる、危うさがある。
アルチュール・ランボーの詩「永遠」の如く。


また、未来に思いをめぐらせても、同じ感慨に襲われる。
スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」のように。
個としての人間の寿命は、人類の歴史の、0、1秒にも満たない
現実がある。


マルクスは、「特定な個人とは、たんに一つの限定された類的存在にすぎず」
と規定する。
しかし、迷宮に迷い込むのは、私の不勉強にもよるが、
個としての人間の存在が、非連続(死)であるのに、
類としての人間は、連続するということだ。


恰も、自然界では、毎年秋になると紅葉があり、春に桜の花は咲くが、
その紅葉も桜の花も同じ、葉ではなく、花びらでもない。


今年の桜は、去年の桜ではないのだ。


ただし、類的存在としては、桜は存在する。
私たちも、こうした、葉や花と同じなのか?
「たんに一つの限定された類的存在」
を考察しきれないが、論理の果ての水平線を、見ている私がいる。


マルクス・レーニン主義については、よく理解できないが、
マルクスの思想は、読み解く価値ありと思う。
また、マルクスのアンチ・テーゼとして、小林秀雄林達夫
などを紐解くのも、ジンテーゼへの一歩かもしれない。