写し鏡


「劇文学は、男女の関係の最高の社会的矛盾である情死や密通のような悲劇的
な逆説を人間関係の普遍性とみなす」


「言語にとって美とはなにか」吉本隆明


 明治生まれの祖母は、30代で夫を失い、4人の子供を育て、
一生ひとり身を通した。
祖母の倫理観念にとって、離婚あるいは、再婚などは、
想像の範疇外にあるように思えた。


「男子は十五歳で元服したものだ」
そんな言葉をよく私に祖母は、言い聞かせていた。


祖母の祖父母の時代なら、武士の家格であれば、夫が亡くなれば、
髪をおろし仏門に入る女性さえいた。
まして、今様でいえば、不倫などもってのほかであったろう。
事の他、女性の恋の過ちは・・・・・
主婦の濃い化粧、女性の煙草などにも眉を顰めていた祖母。


ところが、その祖母が、近松門左衛門の世話物が大好きだった。
遊郭や私娼街の人情の綾なす世界には、共鳴していたのである。
文学者や演劇評論家ではない祖母だからこそ、ごく普通の庶民の倫理観で、
こうした、浄瑠璃や歌舞伎の世界の、男女の人情物に深く感銘していた。
女性はかくあるべきだと、頑なに貫く祖母がである。
私の中では、非常にストイックな生き方をした祖母と、
歌舞伎の世界の、世話物を鑑賞し、
寧ろ、吉原の遊郭の倫理にも理解を示す祖母が、なかなか理解できなかった。
祖母の一見矛盾した倫理感に戸惑った。


遊女と客が、手に手を取って逃げるとき、
二人は、当然社会から法的にも疎外され、罰せられる存在となる。
宿命の音色は、死の音曲となる。
二人は現で叶えられぬ運命と悟り、心中という手段を取る。
そうした、男女の機微を受容していた祖母の琴線に驚きを感じる。
たぶん私が、祖母の心象を、深読みをしているのだろう。
理屈ではなく、むしろ祖母は自らの感性で受け止めていたのかもしれない。



「鷺娘」の恋狂いの舞に、恍惚としていた祖母の横顔。
あたかも、うつつが夢幻となり、過去が現世となる瞬間を、
祖母は旅しているようだった。


吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」の引用に、祖母の心象の、
不可思議さの秘密があるような気がする。
「悲劇的な逆説を人間関係の普遍性とみなす」