春待ち人


新潟に向かう車中で伊集院静のエッセイを読んだ。
題は「春になればね・・・」
私の心のひだに触れた文章を引用してみる。



『人間の暮らしは嬉しいこと切ないことを計ってみると、
切ないことが多いのはどうも必然らしい。
しあわせのかたちは似ているが哀しみは皆違っている。
それでも哀しみはいつかやわらかくなる。
春は四季の中で良いことがあるらしい。
「春になればね」
あの女性たちはさまざまなことを耐えていたのかもしれない。』



『嬉しいことと悲しいこと』ではなく『嬉しいことと切ないこと』と、
表現するところが、伊集院静の言葉の斡旋らしい。
「悲しみ」でなく「切なさ」だからこそ、
「春になればね」のタイトルが生きてくる・・・・・
更に「悲しみ」ではなく「哀しみ」を対置させることで、
文章に抒情的な香が漂う。
「哀しみ」という漢字からくるイメージが、
読者の想像力を膨らませるからだ。


雪国新潟を旅して、
地元の男性は、異口同音に新潟の女性の良妻賢母ぶりを語っていた。
雪国の女性は、哀しみをやわらかくする術を、
その苛酷な冬をじっと耐えて過ごすことから、
自然に身につけているのかもしれない・・・・・
そんなことを、車窓の三国連山の残雪を眺めながら考えていた。