自由と情死


『一般論として云って、遊女たちの世界は、財力ある町民にとって、
 離縁状なしに別れられ、結納なしに関係しうる世界であり、
 遊女たちにとっては、法的に疎外され、
 経済的に疎外されるという二重苦を悲劇としてもちながら、
 そのゆえに二重の自由な観念を持ちうる世界であった。』


      「言語にとって美とはなにか」 吉本隆明



この論考の「二重苦の悲劇」と「二重の自由な観念」に、
わたしは刺激された。
そこで私なりの「二重」の悲劇と自由に就いて、論考を試みてみたい。


論理が逆立ちするとき、
人は論理のマジックに嵌まった感覚を覚える。
パラドクスが真実を写す鏡であることもあるのだ。


遊女が法的に疎外され、経済的に疎外された存在だからこそ、
それゆえに結婚という束縛から解放されている。
結婚を、社会的規範とするなら、
その呪縛から解き放たれている男女だからこそ、
幻想でありながら現実の世界である、吉原も現出されるのかもしれない。


吉原田圃といわれた江戸の郊外に突然現れる遊郭吉原。
論理から解放された男女の情の世界は、
しかし尤もしきたりを重んじた世界でもあった。
幻想に現実を付与する、
それはまさにしきたりであった。
しきたりなしに幻想の吉原は存在しない。
そしてしきたりを男と女が破るとき、
悲劇が始まり、情愛が完結してゆく。
悲劇と自由のパラドクス。


遊郭というしきたりのなかだけで生かされる情愛を、
吉原という幻想世界を脱出して、
お歯黒どぶの向こう側の現実に行くことは、
極楽でもなく地獄でもない、
二人だけの千穐楽(せんしゅうらく)の情死。


そこでわたしたちはこんな疑問に突きあたる。
男女の心中ものがなぜ芸術に昇華されるのか?
人形浄瑠璃・歌舞伎・日本舞踊等々。
現実と幻想の軋みに存在するこれらの芸術(美)
二律背反(にりつはいはん)の世界・・・・


言葉で表現しながらも、
言葉で言い表せない男女の情を身体を通して、
あるいは人形を通して表現する芸術。
言葉に縛られながら、
言葉を超えた幻想の恍惚に浸るとき、
わたしたちは芸術の海に漂う小舟になっている。