小説はディテール・・・・


三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」を読了。
今は、永井路子の「流星」お市の方を読んでいる。
「流星」は、織田信長の妹お市の一生を描いている。
物語の内容とは離れるが、
三浦綾子の小説には、性的な表現が皆無だが、
この永井路子の作品は、
男女の睦みごとを官能的に表現している。
たとえばこんなくだりに、


いや、女のみのもつひそやかな部分が、ふたたびふるえはじめるのを、
自分自身、押さえきれないのだ、と小雪は言う。
「お前みたいな女は、初めてだ。飽きないんだな、ちっとも」
からだをからませながら、五郎右衛門が言うと、
小雪は、ふ、ふ、と笑って耳たぶを噛んだ。


「流星」永井路子著より


三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」には、
こうした男女の姿態の直接的表現は、皆無に等しい。
敬虔なクリスチャンである彼女は性的な表現には慎重だったのか?
あるいは、不得手と思っていたのか・・・・



ところで、この文章を読んだ時、気になった漢字表現があった。
それは「押さえる」だ。


永井路子は「自分自身、押さえきれないのだ」
の『押さえる』を『抑える』に何故しなかったのだろういうことだ。
『押さえる』は物理的に押さえるとき使用する漢字。
『抑える』は感情など抑えるときに使用する漢字。
当然この場面では、抑えるが適切な表現なのだが・・・・
むしろ小雪が演技をして抱かれている。
五郎右衛門を騙している事を暗に、
この『押さえる』を使うことで表現しているのかとも、
深読みできる。
それとも『押さえる』とは感情よりも肉体の欲求を意味し、
物理的な意味で使っているのかもしれない。
感情と肉体は別ということで・・・・


後に信長に小雪は『女狐』と呼ばれた。
つまり男を騙す女狐と・・・・


やはり小説も性もディテールが大事なのか・・・・