武蔵野雑感


武蔵野の、存在なくして、東京は、存在しない。
武蔵野を知らざる者は、畢竟、東京を語れない。
少々語弊があるかもしれないが、真の東京人は、
都会人なればこそ、武蔵野を愛するのだ。
なぜなら、武蔵野は東京の臍の緒だからである。
新宿や六本木の高層ビルも、紛れも無く大都会東京の姿であるが、
深大寺玉川上水の緑も、東京の風景に他ならない。
そして、何よりも、武蔵野の、雑木林、あるいは、畑にしても、
そこに、人々の生活の匂いがある。
アメリカや北海道の、大規模な森林や農園とは違い、
生活と自然が隣り合わせに、存在している。


「すなはち野やら林やら、ただ乱雑に入り組んでいて、
たちまち林に入るかと思えば、
たちまち野に出るというようなふうである。
それがまた実に武蔵野に一種の特色を与えていて、
ここに自然あり、ここに生活あり、
北海道のような自然そのままの大原野大森林とは異なっていて、
その趣も特異である。」 武蔵野 国木田独歩


国木田独歩の武蔵野は、確かに、明治の武蔵野をスケッチした文章である。
平成の武蔵野は、都会化されてはいる。
しかし、少しばかり、逍遥すると、まだまだ武蔵野の趣は残っている。
三鷹の大沢では、湧き水で、山葵を栽培しているところもあるのだ。
小金井の奥にはいると、小川で野菜を洗っている。
東京ではないが、野火止の平林寺も、趣味がある。
独歩が記している、「ここに自然あり、ここに生活あり、」
が、まだ武蔵野に生きずいている。
都会の中の、武蔵野を見たければ、白金の国立自然教育園がよい。
プラチナ通りもお洒落だが、国立自然教育園の草木も、
心落ち着く憩いの場ではないか。
さらに、東京都庭園美術館に寄るのも、芸術に触れることで、
心豊かになる。
六本木ヒルズから、東京の街を見下ろすのも、気分が良いのだろうが、
武蔵野に遊ぶ、心の余裕も必要なのではないか。
都会派の文人は、銀座や新宿も出向いたが、
武蔵野も、こよなく愛した。
心に包容力が、あった。
大都会東京の心の余裕、武蔵野。
心の余裕武蔵野を、消してはいけない。


東京都庭園美術館
朝香宮邸として、1933年に建てられた、アール・デコ様式の建物を、
1983年に美術館として公開した


*畢竟(ひっきょう)つまり、けっきょく、の意味。

*逍遥(しょうよう)ぶらぶら歩くこと、散歩、の意味。