退屈の効用

私が、頭の体操をかねて、繰り返し読むのが、
高校の歴史の教科書、数1の参考書、
そして、「英文標準問題精講」原仙作著 中原道喜補訂だ。
この参考書の中で、数多く取り上げられているのが、
バートランド・ラッセル(Bertrand russell)の英文である。
彼の文章は、現代文の小林秀雄と同じく、大学入試問題に多く採用されている。
小林もラッセルも、名文だからだろう。
名文の誉れ高い、ラッセルの「幸福論」の「退屈と興奮」から、
興味深い文章を引用してみる。


『偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、
古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。』
「幸福論」 安藤貞雄訳


古典と言われる本は、全篇が面白いという訳ではない。
しかし、全体を読み終えた時、精神に深い感動を与える。
ジワリと効いて来るというやつだ。
波乱万丈に見える、偉人の人生も、日常生活の大部分は、
平凡な繰り返しだ。
むしろ、カントのような、規則正しい生活のくりかえしが、
知的生活を生む。
歌舞伎や狂言など、古典芸能も、毎日の稽古の積み重ねがあるからこそ、
質の高い芸を、演じることが出来るのだ。
一定のレベルの芸を、維持するには、絶間ざる稽古は欠かせない。
ピアノなどの、音楽もしかりだろう。
偉大な生涯である、偉人達でさへ、大部分を退屈な期間として過ごすとすれば、
私達の、平凡な日常を嘆くこともないのかもしれない。
北朝鮮のミサイル発射で、蜂の巣を突いた様な騒ぎになっている日本。
平凡な繰り返しは良いが、
戦争や飢餓が、日常にならぬように、
私達は、おしなべて退屈な生涯を大切にしなければならない。
ファシズムとは、ラッセルのこんな文章に底流で通じていまいか。


『多すぎる興奮になれっこになった人は、
コショウを病的にほしがる人に似ている。
そんな人は、ついには、ほかの人ならだれでもむせるほどの
多量のコショウさえ味がわからなくなる。
退屈には、多すぎる興奮を避けることと切り離せない要素がある。』

「幸福論」 バートランド・ラッセル著 安藤貞雄訳


東西冷戦の1957年に、ラッセルは「ラッセル・アインシュタイン宣言」で、
核兵器廃絶を訴えた。
2006年、多すぎる興奮=コショウを病的に欲しがる、
国家や独裁者が問題を起こしている。
今、ラッセルが生きていたら、そうしたコショウ中毒者を、
どう、批評するのだろうか・・・・


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