一本の鉛筆


子どもの頃、ふと祖母の部屋で見かけたのは、
鉛筆で書かれた祖母の名前だった。
明治時代に生を受けた祖母は、
満足に学校に通っていなかった。
「おばあちゃんは字は読めるけど、書けないのよ」
そんなことを子どもながら聞いたような記憶があった。
一生懸命書かれた祖母の黒い文字。
なんだか小学1年生が鉛筆を舐めながら書いたような、
決して上手とはいえない文字。
こども心に、何故か祖母の鉛筆で書かれた名前に、
切ない気持になったのを覚えている。


映画「名もなく貧しく美しく」でこんな場面があった。
この「名もなく貧しく美しく」は、
秋子(高峰秀子)と道夫(小林桂樹)の聾者夫婦の物語。
その道夫と秋子の新婚初夜のこと。
二人ともどことなく落ち着かない。
そんな二人が手話で話しだす。
秋子が道夫に、
「何をしているのですか」
と問いかける。
「新聞を読んでいます」
と道夫。
秋子はほほ笑んでいる。
今度は何か秋子が紙に書いている。
「何を書いているのですか」
と道夫。
秋子はちょっと恥ずかしそうな顔をする。
道夫が秋子の紙を見ると、
「片山秋子」
と鉛筆で何度も書かれている。
片山と苗字が変わり道夫の姓となった秋子。
「片山秋子」と鉛筆で書かれた名前に、
妻となった秋子の喜びが溢れているようだった。


一本の鉛筆が人生を語る事があるんだな・・・・
そんなことが頭に浮かんだ。