冬吾の魂


魂が漂白することがある。
心が神隠しになることがある。
深閑とした林をただ歩きたくなることがある。
檀一雄永井荷風織田作之助
そうした無頼派の物書きに、親近感を持つ事がある。


高村光太郎の詩が好きだ。
「道程」と「智恵子抄」のアンビバレンス。
「道程」の雄雄しさと、「智恵子抄」の繊細さ。
純情きらり」の杉冬吾(西島秀俊)は無頼の絵描きであった。
冬吾の絵を見て、マロニエ荘時代の友人は、つまらない絵になったと批判する。
桜子(宮崎あおい)にも、同意をもとめるのだった。
友人の指摘した通り、杉冬吾の絵は、幸せな日常の中で、
確かに精彩を無くしたのだろう。
どんなに、苗子(寺島しのぶ)が冬吾を庇ったとしても。
魂の漂白こそ、冬吾の芸術のダイナモなのだから。
心が神隠しに状態になり、ただ、ひたむきに絵を描く冬吾に、
芸術の女神は、美を与え賜ふ。
芸術家や作家を愛した女性は、彼の才能を愛す。
しかし皮肉にも、彼の才能から、別れを告げられることもある。
それを、予感しながらも、潔く愛する女たち。
智恵子の錯乱は、光太郎の責任でもある。
なにも、東京に彼女の故郷の安達太良のような、青い空がないだけで、
智恵子の魂が病んだ訳ではない。
「レモン哀歌」は、いまだに私を泣かす。
智恵子を失った光太郎の悲しみが、胸を締め付けるからだ。
しかし、同時に激しく彼に反発を覚える。
二人だけの、秘密をなぜ文学にするのか、と。
二人だけの胸に、なぜ閉まっておけなかったのか、と。
死の間際まで智恵子を愛しながらも、自らの「詩」にしてしまう光太郎。
それは詩人だからこそなせる業なのか。
智恵子は、光太郎の詩人としての、業を知り抜いていたからこそ、
魂を病んでしまったのではないか・・・・・


高村光太郎のように、画家としての魂と、夫としての魂に、
これから、杉冬吾も揺れるのだろうか・・・・・


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