ショートストーリ

割烹着の菩薩さま

九鬼は夢を見た。 波打ち際にいると急に波が高まってくる。 打ち寄せる度に高まる波。 岩場に逃げる九鬼。 ところが急に場面は町中になり、木造の建物を九鬼はよじ登る。 下を見ると道路は海水で覆われている。 九鬼はいつしか少年になっていた。 なんとか九…

栞のテーマ

ひまわりの丘を九鬼は目指していた。 丘への道は緩やかなカーブが続く。 サザンの「栞のテーマ」がカーラジオから流れる。 彼女が髪を指で 分けただけ それがシビれるしぐさ 心にいつも アナタだけ映してるの 夏の夜に九鬼が出逢った女性は、 さながらこの「…

春が来たら

女ひとりで、 薫は川釣りをしている。 もう一時間もピクリともしないヘラ鮒用の浮の棒。 日差しの温もりを感じる3月、だが川面を渡る風はまだまだ冷たい。 父譲りの紺のスタジャンを薫は羽織っている。 父のスタジャンは温かい。 薫は、 松たか子の「明日、…

かけ引き

九鬼は窓越しのツインビルを眺めながら、 コルトレーンのサックスを脳髄に流し込んでいた。 コルトレーンの「至上の愛」がスイングする。 外はいつしか琥珀色に染まっていた。 九鬼のグラスにも琥珀色の液体が注がれていた。 「その女性(ひと)はあなたとか…

冬の花

「わたしは冬の花なの」 「さざんかとか椿のような」 春に生まれた沙希は少し遠くを見るような目で呟いた。 「最後に咲くのは冬の花だよ」そう言って九鬼は沙希を見つめた。「最後に咲く花って・・・」問い返す沙希は、 九鬼のことばをつかみかねていた。「…

枝垂れ花火

沙希の浴衣姿は艶やかだったな・・・ 隅田川の花火を見ながら九鬼はそんな思いに浸っていた。 夜空に広がる枝垂れ(しだれ)花火。 いつしか枝垂れ花火は藤の房となり、 沙希の踊る藤娘が幻のように浮かんだ。 「沙希は活き活きしているだろうか」 沙希の身…

懐中時計の男

時は水無月。 ここは銀座四丁目。 和光の店内。 「あなたが身に着けたらお似合いの物があるわ」 沙希は九鬼に囁いた。 「身に着けるもの・・・」 「ええ、身に着ける物」 確かにここは時計売り場だがと思案する九鬼だった。 沙希の悪戯っぽい目が九鬼を見つ…

やさしい時間

その日九鬼は口開けの客だった。 九鬼はカウンターの席に着いた。 ママは観音様のようなふくよかな顔立ちで、 どこか客に安心感を与える女性だった。 九鬼にママが話しかけた。 「娘がね、今日家に寄ってね、昼寝していったのよ」 ママは嬉しそうに話して、 …

朧月

ブラインドを開け九鬼は月を見た。 今宵の月は潤んだ朧月。 きれいな月だ。 沙希にもこの月を見せてあげたい、 そんな思いが九鬼の胸の泉の波紋となった。 「何故わたしには試練ばかり訪れるのかしら」 「神様はいじわるね」 そんなことばを呟いた沙希。 こ…

猫舌の恋

「あの頃のわたしは猫舌だったの」 「ネコ舌!」 「そう今みたいな熱い恋ができなかったの 猫舌の恋だったから・・・」

青春

「あのときの写真がないんだよ」 「あの時って・・・」 「学生時代にサークルのみんなで海に行ったじゃないか」 「本当に楽しいと時って記念写真とか、 写真を撮ることを忘れちゃうんじゃないかな」 「そうか青春時代みたいなものか」 「その真っ只中にいる…

百花繚乱

逢瀬の後、 目覚めた雪子が見たものは、 脱ぎ散らされた着物。 一面に散らばった帯に足袋。 それはさなが落葉した紅葉のようでもあり、 乱調の果ての百花繚乱にも映った。

BMWのオンナ

真っ赤なBMWが九鬼に横づけした。 「乗っていきませんか」 女が声をかける。 鈴を転がすような声・・・ 女が車の窓を開けて顔を出す。 女はイタチ科のテンのような顔をしている。 色白の小顔。 小さな鼻がツンと立っている。 可愛いい獣のようだ。 女とは…

黒いマントの男

「あなたって黒いマントが似合うわよ」 「どうして・・・」 「だって吸血鬼みたいだから」 「吸血鬼?」 「そう、黒いマントが似合う吸血鬼」 「それって褒めことばなの」 「そうよ吸血鬼を愛した女は、彼に身も心も捧げるんだから」 「あたし黒いマントの男…

バラのない花屋

ドアを開けると、 お店に沙希の姿はなかった。 彩(いろどり)のない空間が広がっている。 九鬼はふと思った。 「沙希のいないお店はバラのない花屋のようだ・・・」

恋の上書き保存

「ア、ヤバまた上書き保存するの忘れちゃった」 「またやっちゃたの」 「課長から頼まれていた書類、今日までに上げなきゃいけないのに」 「彼のことでも考えてボーとしてたんじゃないの」 「そんな彼なんかいません、いないけど・・・」 「いないけど、どう…